バイト先にいる乃蒼は、いわゆる“目立たないタイプ”の女の子だった。
黒縁のメガネに、控えめな声。
誰よりも真面目で、誰よりも静かに仕事をこなす。
必要以上に人と関わらず、休憩中も一人でノートを広げていることが多い。
正直に言えば、最初はほとんど印象に残っていなかった。
ただの後輩。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど——
ある日、彼女の方から声をかけてきた。
「先輩、少しだけ勉強…教えてもらえませんか」
意外だった。
乃蒼から誰かに頼みごとをするなんて、想像したこともなかったからだ。
話を聞くと、大学進学のために勉強をしているらしい。
バイト代も、そのためにコツコツ貯めているという。
断る理由もなかったし、むしろその真剣さに少し心を動かされて、俺は承諾した。
——それが、すべての始まりだった。
最初の勉強会は、ファミレスだった。
教えると言っても大したことはできない。
問題を一緒に解いて、つまずいたところを軽く説明するくらい。
それでも乃蒼は、驚くほど真剣に話を聞いてくる。
「ここって、どうしてそうなるんですか?」
小さな声で、でもしっかりと目を見て質問してくる。
その距離が、思っていたより近いことに気づいた。
ふとした拍子に、彼女の仕草に目がいく。
ノートに書き込む手元。
前かがみになる姿勢。
何気ない動きの中に、今まで意識してこなかった“存在感”があった。
気づいた瞬間、少しだけ焦った。
(あれ、こんな感じだったか…?)
それまで“地味な子”としてしか見ていなかったのに、
急に輪郭がはっきりして見えるようになる。
それは外見だけじゃない。
真面目さとか、ひたむきさとか、
誰にも見せない努力の積み重ねみたいなものが、少しずつ伝わってきていた。
勉強会は何度か続いた。
そのたびに、乃蒼は少しずつ距離を縮めてくる。
最初は敬語だったのに、
気づけば少しだけ柔らかい話し方に変わっていた。
「先輩って、優しいですよね」
ふと、そんなことを言われたとき、
なぜか言葉に詰まった。
特別なことをした覚えはない。
ただ、頼まれたことをやっているだけだ。
でも彼女は、それをちゃんと受け取っている。
その事実が、妙に胸に残った。
ある日の帰り道。
勉強を終えて店を出たあと、乃蒼がぽつりと呟いた。
「こうやって誰かと一緒にいる時間、久しぶりです」
夜の空気は少し冷たくて、
街灯の光がやけに静かだった。
「いつも一人で頑張ってるから、たまにはいいなって」
そう言って、少しだけ笑う。
その笑顔は、バイト中には見せないものだった。
不思議な感覚だった。
ただの後輩だったはずなのに、
いつの間にか“放っておけない存在”に変わっている。
距離は近づいているのに、
どこか踏み込んではいけない気もする。
それでも、時間は進んでいく。
何気ない会話。
帰り道の少し長い寄り道。
小さな変化が積み重なっていく。
そして気づく。
——ああ、もう前とは同じじゃいられないな、と。
乃蒼は相変わらず静かで、
大きく変わったわけじゃない。
でも、彼女の中にあるものを知ってしまった以上、
“ただの地味な後輩”として見ることはできなかった。
真面目で、不器用で、でもまっすぐで。
その全部が、少しずつ心に入り込んでくる。
ある日、彼女が言った。
「先輩がいなかったら、たぶん続いてなかったです」
その言葉は軽いものじゃなかった。
誰にも頼らずにやってきた彼女が、
初めて見せた“弱さ”だったのかもしれない。
だからこそ、簡単に受け流せなかった。
「…そんなことないだろ」
そう言いながらも、
自分の中で何かが変わっているのを感じていた。
気づけば、彼女と会う時間が
ただの“勉強”じゃなくなっていた。
理由をつけて会っているのは、
もしかしたら俺の方かもしれない。
静かなはずの彼女の存在が、
こんなにも強く残るなんて思っていなかった。
地味で目立たない後輩。
それが最初の印象だった。
でも今は違う。
彼女はちゃんと、自分の意志で前に進んでいて、
その過程を少しだけ共有させてもらっている。
ただそれだけの関係。
それなのに——
なぜか、他の誰よりも気になってしまう。
きっとこれは、特別なことじゃない。
よくある話なのかもしれない。
でも、ひとつだけ確かなのは、
“何も知らなかった頃には、もう戻れない”
ということだった。


コメント